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玉屋ブログ

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パパ大好きのお話。

2018/09/03

俺が30歳の時、ひとつ年下の嫁を貰った。
今の俺たちには、娘が3人と息子が1人いる。
長女は19歳、次女は17歳、三女が12歳。

長男は10歳
こういうと『長女と次女は嫁の連れ子?』といわれる。
違う、そうじゃない。
長女と次女は、俺とは血が繋がっている
しかし、俺の子ではない。
俺には、3歳年上の姉が居た。
姉は25歳で結婚、二女を設けた。
しかし、ダンナが夢多き男でデザイナーだとか今度は設計事務所だとか。
最後は、議員になると選挙にまで立候補した。
しかし、いずれも当たらず・・・
借金をして、その借金の工面に俺の姉も一緒に働き、仕事に駆けずり回っていた。
そんなある日。
姉夫婦が深夜のコンビニでのバイトを終え、車で帰宅途中、酔っ払い運転の車にぶつけられた。
2人は、帰らぬ人となった。
最初は、何がなんだか分からなかった。
当時、結婚したばかりだった俺は、
『人生って上手くいかねぇな』
とか
『神様って本当に居ないんだな』
とかそんなことばっかり考えてた。
当時、5歳と3歳の姪が2人残された。
2人をどうするか、両家の家族で色々と話し合った。
ウチの両親は当然、今までの姉の苦労を知っていたから、自分達が引き取り、ちゃんと育てると言った。
確かに両親は自分の目から見てもちゃんとしているし、問題無いだろうと思っていた。
しかし、義兄の家族は、既にウチの親父が定年で会社の嘱託顧問となっていたため、『今後の収入が期待できない』と言い出した。
義兄の親は自営で、一応収入はあったが、先行きには期待できなかった。
そんな話し合いの中、俺は姪2人に聞いた。
「俺と住むか?」
と。
2人は「ウン」と言った。
嫁に事情を話すと、2人産んだと思えば良いと言ってくれた。
『裁判をする』と言っていた義兄の家族も、『まだ、若くて収入が期待できる人ならば』と納得してくれた。
こうして、俺は突然、2人のパパになった。
2人の姪は素直だったが、俺と嫁のことを「パパ」「ママ」と呼ぶことに抵抗があったようだ。
次女は比較的早くから嫁を「ママ」と呼んでいた。
嫁は「ママと呼んでくれた」と、1人で泣いていたのを覚えている。
パパと呼び出したのは小学校に入るくらいかな?
しかし、長女は時間がかかった。
嫁のことをママと呼ぶまでに7年掛かった。
俺は結局、パパと呼んでもらったことは無かった。
そんな長女も高校生になった。
大学も当然考えるようになったある日のこと。
嫁が高校の3者面談に行くと、長女は自分の希望をこう言ったという
「音大に行って、音楽の先生になりたい」
と。
これで俺はピンと来た。
姉は小さい頃からピアノをやっていて、長女も3歳ごろからピアノをやっていた。
俺と一緒に住むようになってからも続けていた。
彼女なりに、産みの親とのつながりを持っているんだと思った。
長女は東京の音大に進みたいと言い出し、結果、推薦を貰って、この春希望の大学に進学した。
結局、俺は一度も「パパ」とは呼ばれず、俺はあだ名で呼ばれていた。
長女が東京へ旅立つ日、俺は出張で海外にいた。
帰国すると、長女が家族全員に書いたという
手紙を嫁から貰った。
そして、号泣した。

以下、そのまま。
○○ちゃんへ
泣きながら(次女の名前)と2人で
○○ちゃんと暮らし出したのを
昨日のことのように覚えています。
怒られてムカついたし、
一緒に遊んでくれてすごい嬉しかったし、
本当に感謝してます。
ありがとう。
そんな私を東京の音大にまで出してくれて、
本当に本当にありがとう
今まで以上に言うこと聞いて良い子になって帰ってきます。
最後に
パパ、本当にありがとう、大好き

あぁ、俺もお前のことが大好きだ。

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死ぬまで忘れる事は無い暗証番号のお話。

2018/08/27

元号が昭和から平成に変わろうとしてた頃の話です。

当時私は二十代半ば、彼女も同じ年でした。

付き合おうかどうかという時期に彼女から私に涙ながらに電話・・・

「結婚は出来ない体だから付き合えない・・・」

夜中でしたが気になるので彼女に会いにいきました。

そして彼女から

「一度乳癌の手術をしているから・・・片胸が無いの・・・私」

私「・・・でも、・・・それは僕にとっては結婚出来ないという条件ではないよ・・・」と、

私も彼女が好きでしたし実際片腕片足が無くとも好きな人は好きになる性格でしたから。

そうこうしている内にお互いが一緒に住むようになりました。

が、幸せ気分も束の間で、彼女の肺に転移しているかも知れないという検査の連絡が入ってしまいました。

急遽入院で、後は検査の連続で
(肺への内視鏡検査はつらかったそうです)
二週間が過ぎた頃です。

見舞い時間が過ぎて帰りがけに彼女が「左の足が少し引きずって歩いているみたい」

というので、

「症状を先生に話してみるね」

といって帰りました。

次の日、先生に報告すると、「・・・明日、頭を検査」と、・・・私は当時何もしらない馬鹿者でしたが

「足」→「頭の検査」でびっくりしたのを忘れられません。

検査した夜、CTスキャンの結果を聞きに行かなくてはならなかったのですが、

彼女には
「大丈夫だよ、大した事無いって」といいながら震えながら病院の応接室に入って行きました。

先生は若い方で私達を真剣に励ましてくれる方でした。

その先生も現状が悔しかったらしく
第一声が
「どうしようも・・・」と、

少し涙を浮かべながら話してくれました。

やはり脳内にも転移していたんですが
「癌細胞の成長が早くて周りの脳を圧迫しながら進んでいる、
摘出したいが周りが柔らかくなっているので、今の医学では不可能なんだ・・・」

私はもうぼろぼろに泣いていましたが勇気を出して

「どれくらい持ちますか?」と、聞きました。

入院はしているものの彼女はとても元気で見るだけでは病人とは思えなかったのですが、

先生いわく
「何もしなければ2ヶ月、延命処置を取れば半年だろう」
とおっしゃいました。

涙ながらにです。

私「治療しても半年??」

先生「治療とは言えない、延命処置だ・・」

その方法とは放射線治療の事で、激しい嘔吐や脱毛、目まいを伴うものです。

私は考えました。

考えましたがとてもその場では判断出来る物ではありません。

せめて余命2年とかであれば抜けた髪も生え揃うであろう。

でも、半年なんて。

次の日、先生に外泊許可を得て自宅に帰る二人が居ました。

その夜、彼女のほうから
「検査の結果、聞かせて・・・うそは無しで・・・」
と、言われ、私は言葉に詰りそうになりながらも彼女を信じ、
正直にすべてを伝えました。

この瞬間が今までの人生で(未だに)辛かった時です。

言葉は省略させて頂きますが、二人ともぼろぼろに泣きながら、でも、
特に彼女は強く理解して残された人生をどう生きるか、決断をしました。

「退院して、少しでも楽しもう!」

翌々日、病院に帰り、先生に二人の考えを伝えたところ、

「頑張れよ!負けるなよ!」と
励ましていただき2日後に退院しました。

その後すぐに旅行社に行き、新婚旅行の手配と、
「結婚しました」の葉書を作り、友人一同に送り、

(彼女が病気だとは誰一人知らない)
みんなで祝ってもらいました。

余命2ヶ月と言われながらも彼女は本当に頑張り、退院4ヶ月後の「花の博覧会」にも

(車椅子生活になりはしましたが)

行く事が出来、喜んでくれました。

しかし、病気は確実に進行し、まもなく自宅療養が不可能な状態になり、
再入院、雨の降りしきるある晩に意識不明になり、翌朝私の腕枕の中で帰らぬ人となりました。

恥ずかしいながら、15年近くたった今、「彼女のすべての強さ」に、私は追いつくことが出来て居ません。

前置きが長すぎるんですが、二人同居を始めた頃に銀行の口座の暗証番号やらもろもろの番号を統一しようと、

二人の誕生日をたした「○△◇■」を決めて生活していたんですが、

彼女が亡くなってしまって、暫らくした頃に、公的な機関への書類提出で、死亡診断書が必要になり、
病院で2通取ったんです。

で、内1通がなぜか開封状態で手元に来たもので、見てしまったんです。

死亡原因、病名云々のなかに眼に留まった

死亡時刻、平成*年*月*日 ○△:◇■分・・・・・・・・

二人で決めた暗証番号が並んでいました。

きっと本当の偶然でしょうけれども、私は「忘れないでね!」と、彼女が言ってると今でも思っています。

勿論死ぬまで忘れる事は無いでしょう。
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この度の豪雨災害について

2018/07/09

この度の大雨豪雨災害に於きまして、現在、すべての特別警報は一旦解除されたもの
の、河川の氾濫や土砂災害が相次ぎ甚大な被害が出ております。
亡くなられた方々へ謹んで哀悼の意を表しますとともに、被災された皆さまならびに
そのご家族の皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

しょっぱい玉子焼きのお話。

2018/06/18

些細な事ですが…
10年程前、母が何かの病気(今だに知らないのはちょっとおかしいですよね)で手術して入院しました。
私の通っていた中学校の昼食は、給食ではなく弁当持参の学校でした。
毎朝作ってくれていた母が入院したので、その1ヵ月弱の期間、代わりに父が毎朝早くから起きて作ってくれました。

私の兄弟は3姉弟でした。
皆年が近かったので、3人分を作らなくてはいけませんでした。
父は「友達に見られても恥ずかしくない弁当を作るから安心しろ!p(^-^)q」と、テレビの料理番組や本を見ながら研究したり、友人に聞いたりしていたようです。
父は毎日の弁当に、必ずしょっぱい卵焼きを入れてくれていました。
季節は夏だったので、父なりに調べたのであろう
「塩を少し効かせると腐りにくいんや♪(゚∀゚)v」
と、どこから仕入れた知識なのやら、その卵焼きは塩味の効いた不器用な卵焼きでした。
アレから十数年…
母が残業で遅くなったりして夕食の支度がまだの時は、父が例の卵焼きをよく作ってくれます。
その卵焼きは、まだ少ししょっぱくする癖が残っており、食べる度に「あぁ…、オレの親父の味だな」と、ホロリとしてしまいます。
父と呑む晩酌の、愛情の効いた最高の肴です。
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母が描いた絵のアルバムのお話。

2018/06/12

うちは貧乏な母子家庭で、俺が生まれた時はカメラなんて無かった
だから写真の変わりに母さんが色鉛筆で俺の絵を描いて、アルバムにしてた
絵は上手じゃない
ただ、どうにかして形に残したかったらしい
ほぼ毎日、赤ん坊の俺を一生懸命描いてた
絵の隣に『キゲンが悪いのかな??』とか『すやすや眠ってます?』ってコメント付きで
小学四年生の時、家に遊びに来た友達数人に、そのアルバムを発見された
めちゃくちゃ笑われて、貧乏を馬鹿にされた
友達が帰って直ぐ、俺はアルバム三冊をバラバラに破いてゴミ箱に捨てた
パートから帰って来た母さんがそれを見つけて、泣きだした
破いた理由を言っても、変わらず泣き続けた
翌朝起きると、居間で母さんがゴミ箱から絵の破片を集めてセロハンテープでとめてた
「恥ずかしい思いさせてごめんね。でもね、これ、母さんの宝物なんよ」
申し訳なさそうに優しくそう言われると、涙が溢れ、俺はごめんなさいと謝った
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お前これ欲しかったんだろ? のお話。

2018/06/03

俺がまだ小学生だった頃、どうしても欲しかったオモチャを万引きしたら見つかって

それはもう親にビンタされるは怒鳴られるはでメチャメチャに怒られた。

それから暫らくして俺の誕生日が来たんだけど、その時に両親が俺にくれたプレゼントがその

時万引きしたオモチャだった。

「お前これ欲しかったんだろ?」と母親が言ってくれたとたん俺は泣いた・・

家貧乏だったのに多分無理して買ってくれたんだろうな・・

あれからもう15年くらいたったけど、今でも忘れられない思い出になっています。

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