俺には妹がいるのお話。

俺には妹がいるんだが、これが何と10も年が離れてる。
しかも俺が13、妹が3歳の時に母親が死んじまったんで、
俺が母親代わり(父親は生きてるからさ)みたいなもんだった。
父親は仕事で忙しかったから、妹の世話はほぼ俺の担当。
飯食わせたり風呂入れたり、つたないながらも自分なりに一生懸命やってたと思う。

妹が5歳の時のこと。
保育園に妹を迎えに行ったら、なぜか大泣きしてやがる。
その日、お遊戯会の役を決めたんだが、妹はやりたかった役になれなかったらしい。
まあそれは仕方ねーだろ、あきらめろと最初は諭してたんだが
よく話を聞いてみると、どうもおかしい。
劇にはいろんな動物や妖精や探検家?が登場するらしく、女の子の一番人気は妖精。
妹も当然妖精がやりたかったようだ。
希望者多数だったので、決定は恨みっこなしのジャンケンにゆだねられるも、
妹は見事勝ち抜いて妖精5人のうちの一人に選ばれた。

ところが、先生が

「○○ちゃん(妹)は動物の方がいいんじゃない」

と妹を妖精役から外したという。
そんな馬鹿なと思いながら、俺はすぐに保育園に電話して確かめた。
そこで分かったのは、劇の衣装は保護者が作らなければいけないこと。
そして、妖精のひらひらの衣装はとても難しく、俺の家では無理だと判断され、
お面などを作れば済む動物役に妹が割り振られたことだった。

先生も悪気があった訳じゃないんだろうが、俺は妹に母親がいない引け目をなるべく
感じさせたくなくてそれまで頑張ってきただけに、かなりショックで、妹にも申し訳なかった。
それで、裁縫なんて家庭科実習とボタン付けくらいしか経験がなかったくせに

「絶対にちゃんと作るから妹を妖精役にしてやってくれ」

って頼み込んだ。
結局、先生が根負けして妖精は6人になった。

それから、俺は放課後になると学校の家庭科室に通い詰めた。
家にミシンなんてなかったし、保育園からもらってきた材料と型紙だけじゃ
全然意味不明だったから、家庭科の教師に教わりに行ったんだ。
受験生だったし、教師も同情して

「作ってあげる」

って言ってくれたけど、俺は意地でも自分の手で縫い上げてやりたかった。
ほかの子と同じように、家族が愛情込めて作った衣装で舞台に立たせてやりたかったんだ。
2週間ほとんど掛かりっきりになって、ようやく衣装は完成した。

スパンコールをたくさん縫いつけた、ふんわり広がるスカートに、レースを使った羽根、花の形の襟元。
縫い目なんかはよく見るとガタガタだったんだけど、普通に着てる分には、他の子と全然変わらなかったと思う。
初めて妹に見せた時の歓声は今でも忘れられない。
着せてやった時の最高の笑顔も、
本番の舞台でのまじめくさった顔も、その夜、衣装を着たまま寝ちゃった寝顔もずっと覚えてる。

実は妹が近々嫁に行くことになってさ。
こないだ、披露宴で流すビデオに使うとかで、
小さい頃俺が撮ってやったビデオごっそり持ってったんだけど、
あのお遊戯会の映像流れたらやばいw確実に泣くww
妹は多分衣装のこと覚えてないし、
映像は俺が号泣してたせいでぶれまくりだから大丈夫とは思うが…

まず、報告が遅くなって申し訳ない
5月の予定だった妹の結婚式は、結局先週ようやく挙げられた
俺の入院のせいで延期させてしまって、ほんと申し訳なかった
兄貴として情けない、最後の最後で妹の幸せを邪魔するとは

妹は綺麗だった
本当に綺麗で綺麗でまぶしくて立派で輝いてて、
でもなんか俺がつききりで世話してたころのちびの顔そのまんまな気がした
何でかな、大きくなってからはあんまりそんなこと感じなかったのに
ウェディングドレス着て完璧にメイクしてるのに
見れば見るほど泣きべそかいてたちっちゃいころそのまんまで
思わず笑ったつもりが号泣してしまった
絶対泣かないとか無理に決まってるのに強がってた俺が馬鹿だった
しかも最後に、これが一番の宝物、嫁入り道具に持っていくって
あのときの衣装だった

馬鹿じゃないののお話。

付き合って3年の彼女に唐突に振られた。

「他に好きな男が出来たんだー、じゃーねー」

就職して2年、
そろそろ結婚とかも真剣に考えてたっつーのに、
目の前が真っ暗になった。

俺は本当に彼女が好きだったし、勿論浮気もしたことないし、
そりゃ俺は格別イイ男って訳じゃなかったけど、
彼女の事は本当に大事にしてたつもりだった。

なのに、すっげーあっさりスッパリやられた。

どーにもこーにも収まりつかなくて、電話するも着信拒否、
家行ってもいつも留守、バイト先も辞めてた。

徹底的に避けられた。

もーショックですげー荒れた。仕事に打ち込みまくった。

それから半年、お陰で同期の中でダントツの出世頭になってた。

彼女の事も、少しずつ忘れ始めてた、そんなある日。
携帯に知らない番号から電話がかかってきた。

最初は悪戯とかだと思って無視ってたんだけど、何回もかかってくる。
仕方ないから出た。

別れた彼女の妹を名乗る女からだった。
その女が俺に言った。

「お姉ちゃんに会いに来てくれませんか?」

・・・彼女は白血病にかかっていて、入院していた。
ドナーがやっと見つかったものの、状態は非常に悪く、
手術をしても助かる確率は五分五分だという。
入院したのは俺と別れた直後だった。

俺は、病院へ駆けつけた。
無菌室にいる彼女をガラス越しに見た瞬間、
俺は周りの目を忘れて怒鳴った。

「お前、何勝手な真似してんだよっ!俺はそんなに頼りないかよっ!!」

彼女は俺の姿を見て、しばらく呆然としていた。
どうして俺がここに居るのかわからない、という顔だった。
その姿は本当に小さくて、今にも消えてしまいそうだった。

でもすぐに、彼女はハッと我に返った顔になり、
険しい顔でそっぽを向いた。

俺は、その場に泣き崩れた。堪らなかった、
この期に及んでまだ意地をはる彼女の心が。

愛しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。

その日から手術までの2週間、俺は毎日病院に通った。
けれど、彼女は変わらず頑なに俺を拒絶し続けた。
そして手術の日。俺は会社を休んで病院に居た。
俺が病院に着いた時にはもう彼女は手術室の中だった。

手術は無事成功。けれど、安心は出来なかった。

抗生物質を飲み、
経過を慎重に見なくてはならないと医者が言った。

俺は手術後も毎日病院に通った。
彼女は、ゆっくりではあるけれど、回復していった。

そして彼女は、相変わらず俺の顔も見ようとしなかった。

ようやく退院出来る日が来た。
定期的に検査の為、通院しなくてはならないし、
薬は飲まなくてはならないけれど、
日常生活を送れるまでに彼女は回復した。

俺は当然、彼女に会いに行った。お祝いの花束と贈り物を持って。

「退院、おめでとう」

そう言って、花束を手渡した。彼女は無言で受け取ってくれた。
俺はポケットから小さい箱を取り出して中身を見せた。

俗に言う給料の3ヶ月分ってヤツ。

「これももらって欲しいんだけど。俺、本気だから」

そう言ったら、彼女は凄く驚いた顔をしてから、俯いた。

「馬鹿じゃないの」
彼女の肩が震えていた。

「うん、俺馬鹿だよ。お前がどんな思いしてたかなんて全然知らなかった。
本当にごめん」

「私、これから先だってどうなるかわからないんだよ?」

「知ってる。色々これでも勉強したから。
で、どうかな?俺の嫁さんになってくれる?」

彼女は顔を上げて、涙いっぱいの目で俺を見た。

「ありがとう」

俺は彼女を抱きしめて、一緒に泣いた。

ウチの親には反対されたけど、俺は彼女と結婚した。

それから2年。

あまり体は強くないけれど、
気は人一倍強い嫁さんの尻に敷かれてる俺がいる。

子供もいつか授かればいいな、
という感じで無理せず暢気に構えてる。

??後日談??-

嫁さんのお腹に新しい命が宿ってるってわかった。
「子供は授かりものだから、無理しないでのんびり構えとこう」
とか言ってたけど、正直諦め気味だった。

まだ豆粒みたいなもんなんだろうけど、俺と嫁さんの子供が嫁さんのお腹の中にいる。

そう思っただけで、何か訳の分からない熱いものが胸の奥からこみ上げてきて、泣いた。
嫁さんも泣いてた。
実家に電話したら、結婚の時あんだけ反対してたウチの親まで泣き出した。
「良かったなぁ、良かったなぁ。神様はちゃんとおるんやなぁ」
って。

嫁さんの親御さんは
「ありがとう、ありがとう」
って泣いてた。皆で泣きまくり。

嫁さんは身体があんまり丈夫じゃないから、産まれるまで色々大変だろうけど、
俺は死ぬ気で嫁さんと子供を守り抜く。
誰よりも強いお父さんになってやる。

でも、今だけはカッコ悪く泣かせて欲しい。

どきどきのお話。

その昔、大学の同級生の女の子にがりがりに痩せた子がいた。
細身の娘が好みだったのでお声掛け。
程なく恋仲に。

あるとき「心臓に大穴が空いていて、苦しい。子供も無理。諦めるなら今のうち。」と告白された。
本人は死ぬ気だったらしい。
迷うことなく、恋人のまま。
出来る手術があるのならと方々の心臓外科を探しまくってなんとか手術にこぎ着けた。

どきどき。

成功した。
うれしかった。
術後も良好。
でも、子供は無理。
受胎しないだろう、と言われた。

当然、親同士は結婚に猛反対。
オレの親は勿論、向こうの両親も。
無視。
無視し続けてもなを、説得も続け、6年掛けてやっと挙式/入籍。

10年後、余程経過が良かったのか、妊娠が発覚。
主治医に相談したら、妊娠できたのなら出産は問題ないだろう「挑戦しましょう。」おまい、オレの女房だぞ、オレの子供だぞ、大丈夫なんだろうなぁ。

どきどき。

無事出産。
3,000g元気な男の子。
あまりに嬉しくて、2寸ほど、宙に浮いていた。

半年後、かみさんに似たような心臓障害発覚。
成長しないだろうってどういう事?「様子を見ながら出来るものなら手術をしましょう。」かみさんの執刀医の紹介で小児心臓外科の先生にお願いする。
十年待った一粒種、殺すなよ。
頼むから。

どきどき。

成功した。
これ以上ないくらい。

あれから15年。
ころころ太ったかみさんが居る。
「うぜえんだよ、親父。」憎まれ口を聞く、ちょっと小振りな男子高校生が居る。
さえないサラリーマンの普通の一家がある。

かみさんにも、せがれにも言わないが、幸せを噛みしめている。

ダメな僕だのお話。

11年前のはなしです。

当時付き合っていた彼女が妊娠しました…
僕は周囲の反対を押し切り、結婚し出産させた…
なぜ、反対されたかというと、彼女には精神的に弱いところがあったからだ…
僕は子供さえ生まれれば強くなると勝手におもいこんでいた。

あまかった…

若かった…

出産後、やはり、彼女はおかしくなり、とても子育てどこではなく、一緒にいる僕までもが、おかしくなりそうだった…
恥ずかしいことだが、僕には、まだ、他人の責任を負う事はできなかった…
離婚までの話は半年位、かかった。

そして、互いの生活が続いていたある日、彼女から、連絡があった「息子を保育園に迎えに行って欲しい」との事だった…僕は了解し、車で迎えに行った。

三ヶ月ぶりのわが子を膝に置き、車を走らせた、久しぶりの息子はちょっと重くなっていて、以前よりもよくしゃべるようになっていた。
そして車内から目つくもの全てに「あれ何?これ何?」としゃべりかけてくる…

はじめのうちは「あれは信号だよ」とか「車だよ」とか応えていたけど、そのうちに僕は応えられなくなっていた…

これから、こうして息子に喋りたい時に喋ってやれないと思うと、僕は涙が止まらなくなっていたんだ…

その涙で息子が何を指差してるのかがわからなかったんだ…息子はまだ片言の言葉で笑いながらこう言った…

「つめたいよー」…僕の涙が息子の頭にボタボタかかっていた…僕は声はでなかったから、心の中で…『ゴメン…』

それから、数日たったある日また彼女から連絡があり、新しい彼氏ができ、息子を引き取って欲しいと言ってきた…
僕はその時の仕事のことも考え実家の母に相談し引き取ることを決めた。

あれから8年が経ち、僕は再婚し 今では二歳になる娘と四人で裕福ではないが、なんとか、暮らしている。

最近、娘がどこかに出かけるたびに「これは?これは?」と聞いてくる…そのたびに、あの日の車の中での気持ちが今でも、鮮明に頭に蘇る…

もう二度と自分の子供達にあんな思いはせたくない…子供達に教わり続けてる、駄目な僕だ…

「じい」のお話。

俺の近所に住んでた爺さんの話。

一人暮らしだった爺さんは子供好きで、ちっちゃい頃の俺もよく遊んでもらってた。
ある時、爺さんの家で見た暴れん坊将軍(だったと思う)の1シーンで老中と主役が「じい」「若」と呼び合うのを二人で真似して

俺「じい!今日も遊びに来たぞ。」
爺「若、よくぞいらっしゃいました。」

なんて呼び合って遊んでいた。
そんな関係は俺が他県の大学に進学するまで延々と続いていた。

卒業後に実家に戻ってきたらなんと「じい」が脳卒中やって入院中だという。
さっそく見舞いに行ってみたら「じい」はたくさんの管に繋がれてベッドに横たわっていた。
看護士の話では外界からの刺激にはなんの反応も示さない状態だと言う。
俺は「じい」に呼びかけてみた。
「じい、俺だぞ。覚えてるか?」
ダメもとのつもりだった。

・・・が、次の瞬間、閉じられていた「じい」の目がカッと見開きそして今まで昏睡してたとは思えないようなハッキリとした声で喋った。

「若、ご立派になられましたな。」

もう意識が戻ることはないと聞かされていた俺、そしてソレを言った当の本人である看護士。
二人して悲鳴をあげるほどビックリした。
付き添いで来ていたオカンなどは腰を抜かしたほどである。

直ちに医師が呼ばれ「じい」の意識回復の検査が行われたが、その頃には再び「じい」の目は閉じられていた。
そして結局、それっきり目覚めることのないまま半月後、「じい」は永遠の眠りについてしまったのだった。

後に医師から聞かされた話なのだが、「じい」が脳に負った障害は重く、そこから意識が回復した例は聞いたことがない、というかまずあり得ないということであった。
だがあの場にいた俺は、オカンは、看護士は、確かにその《あり得ない事態》を見た。そして聞いたのだ。
「アンタに会うために目を覚ましたんだろうね。」
とは腰を抜かしてたオカンの談である。

そして「じい」の残してくれた言葉に恥じぬようになろうと心に誓った。

卒団式のお話。

すごくいい卒団式だった。

うちの息子は小2から世話になってたけど下手っぴで、6年生が10人いるから出場は代打要員。

強いチームなので、誰かが怪我や病気でも試合にはうまい5年生2人が出るばかり。

ちっとも試合にでれなくて正直辞めさせようかと悩んだけど、続けさせて良かった。

式で作文を読んだ時に、

『夏の大会で監督が1度だけセカンドで使ってくれて嬉しかった。だからどうしてもヒットを打って監督の期待に応えたかった。』

と息子が言うと、

監督ぼろ泣きで

『代打ばっかりで悪かったな。それでも腐らずに頑張ったお前は偉い。中学行ってもその根性があったら絶対大丈夫。レギュラーになれよ、今度は負けるな。』

って言ってくれた。

何故かチーム1の活躍選手が貰えるMVPの盾ももらった。

他の6年生が、うちの息子にあげて欲しいと言ってくれたそうだ。

息子よ、かあちゃん泣きすぎて酷い顔だったろーな。

でも今晩くらい泣かせてくれ。

実はいいチームだったじゃん。

野球団よありがとう。

そろそろお婆ちゃんがのお話。

そろそろお婆ちゃんが

他界しそうです。年内中だそうです。

この前お見舞いに行きました。
イマイチ、実感が沸かなかった。もうすぐお別れなんて考えられなかった。
弱々しく、病院のベッドで寝ているおばあちゃん私の目の前に、今いるのに、もうすぐお別れなんて分からなかった。

喋るのも辛そうなおばあちゃんは、小さな目で私をじっと見ていた心無しか目が潤んでるように見えた。
手を握ってみた。もの凄くガリガリでしわしわ。握っても、握り返すことは出来ないらしい。
でも妙に暖かかった。お婆ちゃんの体温を感じて私も目が潤んだ。
その時、初めて実感できた。
この暖かい手に触れる事が出来なくなる悲しみ。もう笑顔も見られない。

死なないで欲しい。ずっと生きててほしい。

帰ろうとすると、入れ歯がない口でゆっくりと「いやだ」と言っていた。
「これが最後になるかもしれないのに」とも。
おばあちゃんは手を離さないようにしていた。でも弱々しすぎてすぐに振りほどける。
出来ることなら、ずっと握っててあげたかった。
夜中、病院で1人死を待つおばあちゃんの傍にいてあげたかった。

涙をこらえて、「またね」と言った。

今回が多分、私にとって初めて人の死を悲しむ瞬間になるだろう。
夜の電話には怯え続けてる。
ずっと一緒に居て欲しかった。
せめて、ずっとお婆ちゃんの手を握っていたい。そう思う。

卒業式のお話。

俺にとっての高校生活が終わった 終わってみると短いものだ

高校生活
たくさんの思い出があるが一番大切な思い出は部活のことだ
1年生の頃、サッカーの推薦で入学したが、俺はよく部活をサボってばかりいて、顧問に何度も怒られた
自分が大好きだったはずのサッカーが、中学の頃の出来事から、いつの間にかサッカーが大嫌いに変わっていた
正直、サッカー推薦で高校に入れたが、すぐに辞めようって思っていた

そんな自分を昔のサッカーが大好きだった頃にもどしてくれたのが、仲間と顧問だった
仲間も顧問も自分のことを見捨てないでいてくれた
こんなどうしようもない自分を…
そのことに気づいてから、支えてくれる人達を裏切りたくないって思った

それからは必死になって部活をした

3年生の引退試合
相手が悪く3ー0で完敗
試合が終わってから自分の無力さに泣いて、無駄な1年間をおくったことに後悔した…
そんな俺に顧問が
今の気持ちは一生忘れるな
忘れなければこの先もきっと大丈夫だ

と言った

時間は戻せない

改めて俺は痛感した…

部活を通して大事なことに気付いた

気づかせてくれた仲間や顧問がいた

卒業式が始まってからこの事を思い出した…

あっという間に卒業式が過ぎていって卒業生退場と言葉がかかった

教員1人1人に握手をして退場した

3年間お世話になった顧問の先生と握手をした

顧問の先生の目からは涙がこぼれていた

それを見て、俺は涙が溢れた

3年間お世話になりました

また広島で大きな事故

17日朝、広島県東広島市の山陽自動車道のトンネル内で車12台が絡む追突事故があり、火災が発生しました。2人が死亡し、けが人が70人以上出ています。

 事故があったのは東広島市の山陽自動車道下り八本松トンネルです。事故で2人が死亡、うち1人は40代から50代の女性だということです。また、およそ90人がトンネルの外に避難し、このほかに煙を吸うなどして70人以上のけが人が出ているということです。

辛いニュースで朝から気落ちしています。

「うるう年」 ご存知ですよね?

4年に一度やって来て、2月がプラス1日されるというちょっと複雑な気分になる年です。

漢字では「閏年」と書きます。

本日がうるう年で、2月は29日ですね。

年間の日数と言えば、勿論365日ですよね。ですが地球が正確に365日かけて公転しているかというと、そういうわけでもないそうで。

実際には365.2422日ほどかかっており、これを書き直すと365日と約5時間50分。

1年で6時間弱のズレがあるのです。

このズレを4年間積み重ねると、ぽっかりとおよそ24時間分の隙間が生じてしまいますよね。

4年間でできた1日分の隙間を埋める日、それが2月29日ということなんです。

うるう年が4年周期でやってくるのは、こういう理由があったんですね。

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