伊予柑のお話。
父は気難しい。言いたいことはいつも顔に書いてある。
ドアを強く閉めることもあれば、階段をドスドス駆け上がることもある。
私が「弁当店をやりたい」と言った時も、テレビのボリュームを一気に上げた。
反対とは言わないまでも言いたそうな素振り。たまらず「もういい!」と出ていこうとすると「失敗しても帰ってくんなよ」
とボソリ。以来父とは顔を合わせていない。
そんな私が飯能に店を出したのが十年前。小さな町の、小さな店だ。当初はほとんどお客さんが来ず、手書きのチラシをあち
こちに配り歩いた。お客様は一日に十人。それに対し十万円の赤字。
やっと赤字から脱出できたのは三年後。そこにはひとりのお客様の存在があった。
ふじの。その人は開業当初から買いに来てくれるお客様だった。
そして年に一度、決まって7月3日に弁当を大量注文する。やり取りはいつもFAX。
取りに来るのはいつも代理の方だった。
「いつもありがとうございます。しかしこんなに沢山のお弁当、どなたが食べるんですか」
ある時私が尋ねると「まあ、いいじゃないですか」と代理人は言葉を濁した。
その後も弁当を取りに来てはすぐに帰っていく。
車のナンバーが地元ではないことから近隣の住民でないことは明らか。
ひょっとして転売目的?でもなあ、と思う。たまにお菓子の差し入れをする様子を見ると悪い人ではなさそうだった。
やがて弁当店が軌道に乗り始めると『ふじのさん』からの注文はパタリとなくなった。
それでも毎年7月3日には必ず弁当を200食注文する。それは店にとって大変ありがたいものだった。
しかし昨年。コロナウイルスの感染拡大によって事態は一変。予約のキャンセルが相次ぎ、店の経営は一気に傾いた。
店舗の家賃に、光熱費。休業しても伸し掛る毎月の支払い。気力より先に貯金が底をついた。
『誠に勝手ながら今月末で閉店させて頂きます』
結局、私は廃業の道を選んだ。悲しくて、悔しくて。コロナに胸ぐらがあったら掴んでやりたい。何度も思った。
だがそうもしていられず、店の撤去作業に追われた。自らペンキを塗った看板。何枚も配り歩いたチラシ。
分厚い顧客リスト。それらを見ては涙に暮れ、悲嘆に暮れた。
お客様からのFAXをシュレッダーにかける時は、身も心も刻まれるようだった。そんなある日、店にFAXが届いた。
FAXの主は『ふじのさん』だった。見れば『7月3日シャケ弁200食』とある。
だがその日にはもう店はない。ないんだ。
私は切なさいっぱいに、その旨をFAXで伝えた。店を立ち退く日。その日は朝から別れの挨拶に訪れるお客様で賑わった。
その中に『ふじのさん』の代理人がいた。大きなダンボール箱を抱え「これはヤッサンから」と差し出した。
中身は伊予柑だった。
「いい予感、ってことだそうです。またがんばって下さい」
いい予感、か。私たちは顔を見合わせて笑った。
「そう言えばいつも7月3日にご注文を頂いていたのですが、あの日は何があったんですか」
するとそれまで私を見ていた代理人さんが、すっと目をそらした。そしてたったひと言。「誕生日だから」と言った。
途端に頭が真っ白になった。年に一度の大量注文。それは私へのハッピーバースデーだった。
おめでとう。がんばれよ。声にならない『ふじのさん』のエールが聞こえた気がした。
ありがとう。わたし、がんばるよ。
なんかいい予感がするよ。ダンボール箱を抱きしめて、私は、ちょっとだけ、泣いた。
『ふじのさん』は、父だ。