慰霊祭の準備中
平和公園内にある動員学徒慰霊塔で毎年慰霊祭のお手伝いをさせて頂いております。
8/5の準備中、遅れましたと一人の老婦が来られました。
話を聞くと今年から始めてお手伝いに参加されるとか・・・
団体の準備は、ほぼ終わり我々が会場の設営を残すだけとなっておりました。
団体の皆様は準備を得て、いらっしゃいません。辺りを探すのですが、見当たらず・・電話にも出られません。
僕たちは、熱いので受付を行うテントの中で少しお待ちください。もう少しで帰って来られるんで・・・と
イスに促し待っていただきました。
♪アオギリの木の下で…/metis
受付の準備をしてるのですが、私も手伝いますと言って一緒に準備をいたしました。老婦はやはり被曝されていました。
私は原爆投下時は父の命令で自宅にいたそうです。
原爆が落ちて家は爆破で大破したそうです。老婦はまだ当時小学生・・・気がつくとがれきの下に生き埋めになっていたそうです。偶然にも家の壁と壁が倒れドミノ倒しのちょうどその空間に生き埋めうつぶせで何もできないまま内が起きたのかもわからず一人がれきの下。
すると老婦の兄が必至でがれきを動かして救出してくれたと語っていました。
兄弟は家族を探したそうです。しかし辺りは焼け野原・・・
被曝した数多くの人が水を求めて右往左往されている中お父さんを見つけることが出来たそうです。
しかし、見る影もなく真っ黒で本人の声と私たちの名を呼んだので判断できる位変わり果てていたそうです。
当時は戦時中でほとんどの方が国の要請で丸刈りだったそうですが。老婦の父は高齢だからそんなことはできないと丸坊主にはしてなかったのですが
爆風で髪の毛は丸坊主、肌は焼けただれて父と思えないと語っていらっしゃいました。その後、御子息の生存を確認したかのように逝去されたそうです。
父の命令がなければ私は死んでいたでしょう・・・とお父様に敬意を・・・
実際の体験談をお話ししてくれた老婦はあまり思い出したくないお話を我々に伝えてくれました。
原爆から66年経った今でも鮮明に覚えていると涙目で語ってくれました。
被曝された方の貴重なお話を聞くことが出来たのですが、何も言えずただ茫然としてまいました。
僕は犠牲になった方々のお話は永遠に語り継いでこれからの子供たちに原爆の悲惨さを伝え、平和の尊さを考えてもらえるように努力したいです。
動員学徒慰霊塔
建立者 広島県動員学徒犠牲者の会
形状
平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついている。塔の左右にある4枚のレリーフは「食糧増産作業」「女子生徒の縫製作業」「工場における作業状況」「広島の灯ろう流し」を表し、その裏に全国戦没学徒出身校352校の校名と動員学徒悼歌“ほのお果てては”が記されている。
建立の目的
第二次世界大戦中、労働力の不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍にたおれた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるため。碑文
「第二次世界大戦中増産協力等いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は、全国にわたり三百数十万人。あたら青春の光輝と、学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者のうち、戦禍にたおれたものは一万有余人。その六千余人は原爆死を遂げた。この塔は明眸青雲を望み、将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく、祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと有志同胞の手によってうち建てた。」
特記事項
学徒動員 政府は労働力の不足を補うため、1944(昭和19)年8月に学徒勤労令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。
また、11月には、空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊し防火地帯をつくる建物疎開作業にも、多くの生徒が動員されました。広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲となりました。
その他に市内の各事業所に出ていた多くの学徒も犠牲者となりました。