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死ぬまであの日を伝える

玉屋ブログ

原爆投下から67年、広島が鎮魂の深い祈りに包まれた6日、兵庫県の被爆者代表、石上さん(86)が、広島市中区の平和記念公園で営まれた平和記念式典に初めて参列した。1発の原爆で罪もないたくさんの人が死に、無念のうちに焼かれていったあの夏-。

「もう2度と、あんなにむごい戦争が起こらないように」。

石上さんは原爆死没者慰霊碑の前でそっと手を合わせた。

 「広島に特殊爆弾が落ち被害甚大。救援部隊として行ってもらう」

 昭和20年8月9日朝、旧陸軍暁部隊に配属されていた当時19歳の石上さんは、上官の命令で広島県尾道市から広島市に入った。丹那地区(広島市南区)の小さな神社に駐屯し、近くの空き地で遺体を火葬する任務に就いた。

 空き地には毎日、子供から大人までおびただしい数の遺体が運ばれてきた。

炎天下、立ち上る煙、鼻について離れない臭いと熱気。

少年兵の目には「地獄絵図のよう」に映った。

 約1週間、1日に50人近くは焼いただろうか。

罪もなく死んでいった人の無念を思うと涙が止まらず、ただただ手を合わせることしかできなかった。

 戦後、神戸に戻り父親の製帆業を継いだ。

広島での体験は思い出すと辛く、家族にさえほとんど話さなかった。

差別を恐れ、被爆者であることも隠した。

早く忘れてしまいたい、という気持ちが強かった。

 しかし、平成6年、被爆者手帳の申請のため、約半世紀ぶりに広島を訪問。

被爆場所の記憶すらほとんどなくなっていたが、駐屯した神社の関係者らの支援のおかげで手帳を得ることができた。

当時の記憶がよみがえると同時に、広島の人々の優しさが身に染みた。

 その数カ月後、阪神大震災で被災し、負傷。入院した病院の血液検査で「原爆放射線による肝炎」と診断された。

 自分の中にも「ヒロシマ」はあった-。

そう強く意識するようになったのはこのころだ。

 あの記憶は忘れたい。しかし、生き残った自分こそ、体験を伝える義務があるんじゃないか。

そう考え、被爆体験を振り返った手記を自分の5人の子供たちに渡した。

 そして、この日、「あの戦争を一緒に戦った“戦友たち”を弔いたい」と平和記念式典に参列。遺体を荼毘に付した当時の記憶がよみがえり、涙がこみ上げた。

 「生き残った被爆者の努めとして、死ぬまであの日のことを伝えていかなあかん。もっともっと生きなあかん」。

手を合わせ、心に誓った。

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