暖かいスープのお話。
フランスに、一人の日本の留学生がいた。
彼が渡仏したのは、第二次世界大戦が終結して間もなく、日本がオリンピックに
参加することもままならなかった頃のこと。
彼が最初に訪れた下宿先では、彼が日本人と分かるや否や断られた。
「夫の弟がベトナムで日本人に虐殺された。あなたには何の恨みもないが
この家に日本人をいれたくないのです」
その後住居は定まったが、貧しい学生生活を送ることになった。
彼は大学から少し離れたレストランで毎週土曜は夕食をとった。
そこは若い娘と母親が営む小さな店で、パリの雰囲気を漂わせていた。
彼は「今日は食欲がないから」などと言いながら、いつも一番安いオムレツを注文
した。
ある夜のこと。通い慣れたそのレストランで、娘さんが黙ってパンを二つ出した。
パンは安いので、会計の時にそのまま支払うことにした。食事がすみ、レジの前で二
つ分のパンの料金を払おうとすると、他の客に分からないように人差し指を口にあて、
目で笑いながら静かに首を振り、一人分の料金しか受け取らなかった。彼は、かすれ
た声で「ありがとう」と言った。それ以降、いつも半額の二人前のパンが出た。
何ヶ月か経った冬の寒いある晩。彼は無理に明るく笑いながら、オムレツだけ
注文した。店には他に二組客がいたが、どちらも暖かそうな肉料理を食べていた。
その時、店のお母さんの方が湯気の立つスープを持って近寄ってきて、
震える声でそれを差し出し、小声でこう言った。
「お客様の注文を取り間違えて、余ってしまいました。よろしかったら
召し上がってください」
小さい店だから、注文を取り間違えたのではないことくらい、よく分かる。
目の前に置かれたどっしりとしたオニオンスープは、ひもじい彼にとって
どんなにありがたかったことか。涙がスープに落ちるのを気づかれぬよう、
彼は一さじ一さじ噛むようにして味わった。
仏でも辛い目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、
私が仏を嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない。
人類に絶望することはないと思う。