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広島原爆の日:校庭の地蔵に「ごめん」 救えなかった女児:毎日新聞より

玉屋ブログ

00169回目となる「原爆の日」の6日、被爆地・広島は未明から激しい雨に打たれた。元会社役員で被爆者の加藤さんは6日朝、自宅から6キロほど離れた広島市南区の市立段原小学校を訪れた。校庭の朝礼台の横には、大人の膝の高さぐらいの地蔵がある。原爆が投下された日、当時の段原国民学校は校舎が崩れ落ち、14人の子供たちが犠牲になった。地蔵は一人の女児が息絶えた場所に加藤さんが建てた。「助けてあげられなくてごめん」。加藤さんは手を合わせた。

1945年8月6日、加藤さんは広島工業専門学校)の1年生だった。爆心地から3キロ離れた電子機器工場で、授業中に被爆した。

加藤さんの顔や右半身にはガラス片が刺さったが、大きなけがではなく自宅に戻ろうとした。その途中で、腕にけがをした年配の男性がすがりついてきた。「学生さん、助けて。崩れた校舎に子供たちが閉じ込められている」。国民学校の木造校舎のことで、男性は教頭だった。

崩れた校舎に人影は見えず、加藤さんは「おーい。どこにいるんだー」と声を掛けながら、がれきの上を歩いた。足元に目をやると、10人ぐらいの児童がいて、男の子がこちらを見上げていた。顔はほこりで真っ黒。頬に涙の筋があった。「痛い。助けて」。最後の力を振り絞ったような悲鳴が聞こえた。

炎が迫る中、居合わせた学生仲間8人でがれきをどかそうとしたが、びくともしない。男の子に手は届くのに、体を通せるだけの隙間(すきま)がない。

すぐそばには、校舎の柱に腕を挟まれた女児がいた。おかっぱ頭で、10歳ぐらいだろうか。「必ず助けるから」。加藤さんは約束したが、柱を動かせずに真っ赤な炎が女児を包んだ。加藤さんたちが救えたのは、児童1人だけだったという。

この体験は、強い罪悪感となって加藤さんを苦しめた。長く口にすることはなかったが、被爆から約半世紀がたった1994年6月、学校側に手紙を書いてあの時の光景を伝えた。加藤さんが学校の許可を得て地蔵を建てたのは、その4年後の8月6日。細い目をした地蔵は子供たちを見守っている。

加藤さんは「自分の余命も見えてきた。体力も落ち8月6日に慰霊に来るのは最後かもしれないが、今を生きる子供たちにも核兵器の理不尽さが伝われば」と話した。
http://mainichi.jp/graph/2014/08/07/20140807k0000m040148000c/001.html

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